各宗派の誕生

奈良仏教

 官寺を中心に学問や国家鎮護の祈祷が盛んに行われ、聖武天皇は数多くの国分寺・国分尼寺の造営の詔を発し、その総本山として東大寺大仏殿を建立しました。
 また、「南都六宗」といわれた中国の、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗などが伝えられ、奈良には東大寺・西大寺・法華寺・薬師寺・唐招提寺などの大寺院が建立されました。
 さらに、遣隋使によって招聘された鑑真によって、戒律や多くの経典がもたらされ、仏教は急速にその基礎が整備されました。

平安仏教

 桓武帝による平安遷都が行われると鎮護国家のため、仏教は更に重要な時期を迎えます。
 そして、偉大な二人の高僧の登場により仏教界は大きな転換期に入ります。
 遣唐使の一員として入唐し、帰朝後に最澄は比叡山に「天台宗」を、空海は高野山に「真言宗」を開きました。
 最澄は「法華経」をその根本に据え、禅・律・密を融合した総合仏教を目指しましたが、後に密教が趨勢になると、円仁・円珍らによって密教化(台密)がはかられます。
 一方、唐において青竜寺の恵果より完全な形での密教を伝授された空海は、理論的かつ実践的な密教として、東寺・高野山を拠点に真言宗を展開しました。
 真言宗も、大師没後100年後には、覚鑁によって浄土教が取り入れられ、新義真言宗として分派の魁を成しました。

鎌倉仏教

 仏教は平安末期になると、その歴史観にある『末法』への移行と云われました。
 末法思想は、政治不安や僧兵の横暴、相次ぐ天災や飢饉などにより深く市井に浸透し、この意識を根底にした仏教の変革が図られる事になります。
 筆頭として、比叡山に源信の浄土教を学んだ法然が「浄土宗」を開宗、その法然の弟子親鸞は専修念仏を更に一歩進め「浄土真宗」として展開しました。
 親鸞よりやや遅れて法然の弟子証空に学んだ一遍が更に徹底した他力を説いて時衆(後の時宗)を形成しました。
 入宋した栄西が伝えた禅宗は「臨済宗(当初は密教との兼宗禅)」として開宗され、その栄西の建仁寺に学んだ道元も宋に渡り独自の「只管打座」を旨とした「曹洞宗」を開宗しました。
 更に日蓮は、「法華経」こそが釈迦の至高の真理であるとして「法華宗(日蓮宗)」を開宗します。
 これらの鎌倉新仏教の先駆者も総て、かつては比叡山の学徒でした。

室町から戦国期の仏教

 鎌倉期から室町期には、臨済宗が両幕府の擁護の元で飛躍的に繁栄します。 その中心は渡来僧の蘭渓道隆や無学祖元らの招聘で開山された鎌倉・京都の両五山が成し、象徴的な金閣寺や銀閣寺などもこの時期に建立されました。そして「応燈関の法燈」と呼ばれた弁円(東福寺)・妙超(大徳寺)・慧玄(妙心寺)らにその法脈が引き継がれました。
 浄土真宗では、親鸞の時には無かった組織的な教団が第三世覚如によって形成され、第八世蓮如によって驚異的な発展を遂げました。
 日蓮宗系教団は東国に数箇所の小さな教団でしたが、日蓮の孫弟子日像の京都進出によって全国に布教を開始、鎌倉期に誕生したこれらの宗派はこの時期に全国規模の大教団へと発展を遂げます。
 巨大化した各教団は、武家社会になるとその権勢を増強し、次第に政治権力と対抗するようになります。そして、全国各地で起こった一向一揆や、信長・秀吉らによる石山本願寺の合戦・比叡山焼打ち・高野山征伐・根来寺焼討ちなど武家勢力による武力制圧が相次ぎました。
 また、江戸初期の本願寺東西分割は、こうした巨大化した教団の権力を削ぐための幕府の策略ともいわれています。
 こうして幾多の迫害を受け、仏教界の武力勢力は一掃されました。

江戸期以降の仏教

 江戸期には、キリスト教・日蓮宗不受不施派などが禁制となります。
 これを徹底するため寺檀制度が設けられ、それぞれの宗旨の旦那寺が決められ、近世まで先祖以来固定した宗旨と旦那寺を有すことになりました。

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